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第二章:運命の契約

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-02 19:18:22

「一億円……?」

 凛は呆然と、黒澤玲於という男を見つめた。

「冗談でしょう? 私に何ができるっていうの」

「冗談ではありません」

 黒澤は真剣な表情で続けた。

「私は欧州の名門ラグジュアリーブランド『MAISON NOIR』のアジア代表を務めています。来年、東京に新しいフラッグシップストアをオープンする予定です。そのプロジェクトに、あなたの力が必要なんです」

「私の……力?」

「はい。具体的には、あなたに三つの役割を担っていただきます」

 黒澤は指を折った。

「第一に、ストアのテキスタイルデザインの監修。第二に、日本市場向けの限定コレクションのデザイン。そして第三に――」

 彼は一瞬、躊躇するように間を置いた。

「私の婚約者として、社交界に同行していただきます」

「婚約者……?」

「正確には、偽装婚約です。契約期間は一年。その間、あなたは私のパートナーとして公の場に現れ、MAISON NOIRのブランドイメージを体現していただく。もちろん、実際の結婚義務はありません」

 凛は混乱した。この男は一体何を言っているのだろう。

「なぜ、私なの? デザイナーなら他にいくらでもいるし、婚約者役だって――」

「あなたでなければならない理由があります」

 黒澤は凛の目を真っ直ぐ見た。

「三年前、銀座の画廊で、あなたのテキスタイル作品を見ました。『夜明けの反射』というタイトルの、シルクスカーフのデザイン。覚えていますか?」

 凛の目が見開かれた。

 あれは、彼女が唯一、自分の名前で発表した作品だった。父の会社で働く前、美大時代の卒業制作を、小さな画廊が展示してくれたのだ。

「あのデザインを見た瞬間、私は確信しました。この人は、色と光の本質を理解していると。単なる装飾ではなく、人の感情を動かす『何か』を持っている」

「でも、あれは三年も前の――」

「才能は消えません」

 黒澤は断言した。

「あなたは今、自分に価値がないと思っている。でも、それは間違いです。あなたの目、あなたの感性は、お金では買えない財産です」

 凛の目に、涙が滲んだ。

 誰も、そんなことを言ってくれなかった。夫も、友人も、誰も。

「考える時間をください」

 凛は声を絞り出した。

「こんな夜に、こんな状態で決められない」

「分かりました」

 黒澤は名刺をもう一枚差し出した。

「これが私のプライベートな連絡先です。三日以内に返事をください。それまでは――生きていてください」

 そう言って、黒澤は去っていった。

 凛は一人、橋の上に残された。手には二枚の名刺。そして、消えかけていた希望の火が、小さく灯っていた。


 翌日、凛は黒澤から送られてきた資料を読んだ。

 MAISON NOIR――1889年、パリで創業されたラグジュアリーブランド。創業者のフランソワ・ノワールは、「夜の美学」を追求し、黒を基調とした大胆で官能的なデザインで貴族社会を魅了した。

 現在、世界30カ国に展開し、年間売上は2000億円を超える。特にテキスタイルとレザーグッズで高い評価を得ている。

 そして、黒澤玲於。

 東京大学経済学部卒業後、外資系コンサルティングファームを経て、29歳でMAISON NOIRに入社。わずか5年でアジア代表に昇進した異例のキャリア。

 資料には、彼の写真も含まれていた。パリのファッションウィークで、デザイナーたちと談笑する姿。シャープなスーツを着こなし、知的で洗練された印象。

 そして、どこか孤独な目をしている。

 凛は、自分の過去の作品ファイルを開いた。『夜明けの反射』――深い藍色から淡いピンク、そして金色へと移り変わるグラデーション。夜明けの空を、シルクの上に再現したデザイン。

 当時、このデザインには自分の全てを込めた。色彩理論、染色技術、そして何より、新しい一日への希望。

「私にも、まだ何かできるのかな……」

 凛は呟いた。

 二日後、凛は黒澤に連絡を取った。


 待ち合わせ場所は、六本木の高層ビルにあるプライベートラウンジだった。

 夜景を一望できる空間。革張りのソファ、間接照明、静かに流れるジャズ。凛がこれまで足を踏み入れたことのない世界。

「来てくださって、ありがとうございます」

 黒澤は立ち上がり、凛を迎えた。彼は濃紺のスーツに、シルバーのネクタイピン。完璧に整った外見。

「契約の詳細を説明します。座ってください」

 黒澤は分厚い契約書を取り出した。

「報酬は一億円。これを三回に分けて支払います。契約締結時に三千万、半年後に三千万、契約終了時に四千万」

「四千万? 最後が多いのは?」

「契約を完遂した場合のボーナスです。途中で契約を破棄した場合、最後の支払いはありません」

 黒澤はページをめくった。

「業務内容は先ほど説明した通り。デザイン監修と、社交界への同行。週に三日、私のオフィスで勤務していただきます。残りの日は、デザイン作業に充ててください」

「社交界への同行というのは、具体的には?」

「パーティー、展覧会、慈善イベント。月に二、三回程度です。ドレスやアクセサリーは全て用意します。あなたは私の隣にいて、微笑んでいてくれればいい」

「それだけ?」

「それだけです」

 黒澤は微笑んだ。

「ただし、一つだけ条件があります」

「何ですか?」

「この契約のことは、誰にも話さないでください。特に、これが偽装婚約であることは、絶対に秘密です」

「なぜ、そこまで?」

 黒澤は少し困ったように笑った。

「実は、本社の役員たちが私に結婚を強く勧めているんです。『既婚者の方が安定して見える』『アジア市場では家族の価値観が重要だ』と。でも、私には結婚する気がない。だから――」

「だから、偽装婚約者が必要なのね」

「その通りです」

 凛は契約書を見つめた。

 一億円。それがあれば、父の医療費を払える。借金を返済できる。そして、もう一度人生をやり直せる。

 でも――。

「一つ、聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

「なぜ、私を選んだんですか? 本当の理由を教えてください」

 黒澤は沈黙した。しばらく夜景を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。

「あなたのデザインに、亡き母の影を見たからです」

 凛は息を呑んだ。

「母は、テキスタイルデザイナーでした。幼い頃、母の工房で色とりどりの布に囲まれて育ちました。でも、母は私が十歳の時に亡くなった。それ以来、母のようなデザインに出会ったことがなかった――あなたの作品に出会うまでは」

 黒澤の声には、深い感情が込められていた。

「『夜明けの反射』を見た時、母が好きだった色使いを思い出しました。藍から金へのグラデーション。母もよく、『夜明けは希望の色だ』と言っていた」

 凛の目に涙が溢れた。

「だから、契約してください」

 黒澤は手を差し出した。

「あなたの才能を、もう一度世界に見せてください」

 凛は、その手を握った。

「契約します」


 契約締結から一週間後、凛の人生は劇的に変わった。

 まず、黒澤が用意したのは、広尾の高級マンションだった。

「ここが、あなたの住居兼アトリエです」

 90平米のワンルーム。全面ガラス張りで、東京タワーが見える。白を基調とした内装に、最新の家具。そして、一角には本格的なデザインスタジオが設置されていた。

「こんな……こんな場所、私には――」

「契約の一部です」

 黒澤は淡々と言った。

「あなたには最高の環境で、最高の仕事をしていただきます。遠慮は不要です」

 次に、彼は凛を銀座のブティックに連れて行った。

「MAISON NOIRの今シーズンコレクションから、好きなものを選んでください」

 店内には、息を呑むほど美しい服が並んでいた。漆黒のシルクドレス。深紅のカシミアコート。エメラルドグリーンのイブニングガウン。

 どれも、凛がこれまで手の届かなかった世界のもの。

「本当に、好きなものを?」

「もちろん」

 黒澤は微笑んだ。

「あなたは今日から、MAISON NOIRの顔です。その服を着て、世界に私たちのブランドを伝えてください」

 凛は震える手で、一着のドレスを選んだ。ミッドナイトブルーのシルクドレス。シンプルなデザインだが、生地の質感と、光の当たり方で表情を変える繊細な作り。

「いい選択です」

 黒澤が頷いた。

「このドレスは、パリのアトリエで三ヶ月かけて作られました。シルクはリヨンの伝統的な織元から調達し、染色は日本の職人が担当している。東洋と西洋の美学が融合した、MAISON NOIRらしい一着です」

 試着室から出た凛を見て、黒澤の目が一瞬、輝いた。

「完璧です。まるで、そのドレスのためにあなたが存在しているかのよう」

 鏡の中の自分を見て、凛は驚いた。

 やつれていたはずの顔が、不思議と輝いて見える。ドレスの青が、彼女の黒髪と白い肌を引き立てている。

「私……こんな風に見えるんだ」

「これが、本来のあなたです」

 黒澤は凛の隣に立った。

「今まで、あなたは自分の価値に気づいていなかっただけ。でも、これからは違う。私が、あなたの価値を世界に証明します」

 凛は、初めて心から微笑んだ。

「ありがとうございます、黒澤さん」

「玲於と呼んでください」

 彼は優しく言った。

「これから一年、私たちは婚約者です。お互い、ファーストネームで呼び合いましょう」

「じゃあ……玲於さん」

「『さん』も不要です。玲於、と」

「玲於……」

 その名前を呼ぶと、不思議と心が温かくなった。

「はい、凛」

 玲於も彼女の名を呼んだ。

 その瞬間、何かが始まった気がした。

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