ログイン「一億円……?」
凛は呆然と、黒澤玲於という男を見つめた。
「冗談でしょう? 私に何ができるっていうの」
「冗談ではありません」
黒澤は真剣な表情で続けた。
「私は欧州の名門ラグジュアリーブランド『MAISON NOIR』のアジア代表を務めています。来年、東京に新しいフラッグシップストアをオープンする予定です。そのプロジェクトに、あなたの力が必要なんです」
「私の……力?」
「はい。具体的には、あなたに三つの役割を担っていただきます」
黒澤は指を折った。
「第一に、ストアのテキスタイルデザインの監修。第二に、日本市場向けの限定コレクションのデザイン。そして第三に――」
彼は一瞬、躊躇するように間を置いた。
「私の婚約者として、社交界に同行していただきます」
「婚約者……?」
「正確には、偽装婚約です。契約期間は一年。その間、あなたは私のパートナーとして公の場に現れ、MAISON NOIRのブランドイメージを体現していただく。もちろん、実際の結婚義務はありません」
凛は混乱した。この男は一体何を言っているのだろう。
「なぜ、私なの? デザイナーなら他にいくらでもいるし、婚約者役だって――」
「あなたでなければならない理由があります」
黒澤は凛の目を真っ直ぐ見た。
「三年前、銀座の画廊で、あなたのテキスタイル作品を見ました。『夜明けの反射』というタイトルの、シルクスカーフのデザイン。覚えていますか?」
凛の目が見開かれた。
あれは、彼女が唯一、自分の名前で発表した作品だった。父の会社で働く前、美大時代の卒業制作を、小さな画廊が展示してくれたのだ。
「あのデザインを見た瞬間、私は確信しました。この人は、色と光の本質を理解していると。単なる装飾ではなく、人の感情を動かす『何か』を持っている」
「でも、あれは三年も前の――」
「才能は消えません」
黒澤は断言した。
「あなたは今、自分に価値がないと思っている。でも、それは間違いです。あなたの目、あなたの感性は、お金では買えない財産です」
凛の目に、涙が滲んだ。
誰も、そんなことを言ってくれなかった。夫も、友人も、誰も。
「考える時間をください」
凛は声を絞り出した。
「こんな夜に、こんな状態で決められない」
「分かりました」
黒澤は名刺をもう一枚差し出した。
「これが私のプライベートな連絡先です。三日以内に返事をください。それまでは――生きていてください」
そう言って、黒澤は去っていった。
凛は一人、橋の上に残された。手には二枚の名刺。そして、消えかけていた希望の火が、小さく灯っていた。
翌日、凛は黒澤から送られてきた資料を読んだ。
MAISON NOIR――1889年、パリで創業されたラグジュアリーブランド。創業者のフランソワ・ノワールは、「夜の美学」を追求し、黒を基調とした大胆で官能的なデザインで貴族社会を魅了した。
現在、世界30カ国に展開し、年間売上は2000億円を超える。特にテキスタイルとレザーグッズで高い評価を得ている。
そして、黒澤玲於。
東京大学経済学部卒業後、外資系コンサルティングファームを経て、29歳でMAISON NOIRに入社。わずか5年でアジア代表に昇進した異例のキャリア。
資料には、彼の写真も含まれていた。パリのファッションウィークで、デザイナーたちと談笑する姿。シャープなスーツを着こなし、知的で洗練された印象。
そして、どこか孤独な目をしている。
凛は、自分の過去の作品ファイルを開いた。『夜明けの反射』――深い藍色から淡いピンク、そして金色へと移り変わるグラデーション。夜明けの空を、シルクの上に再現したデザイン。
当時、このデザインには自分の全てを込めた。色彩理論、染色技術、そして何より、新しい一日への希望。
「私にも、まだ何かできるのかな……」
凛は呟いた。
二日後、凛は黒澤に連絡を取った。
待ち合わせ場所は、六本木の高層ビルにあるプライベートラウンジだった。
夜景を一望できる空間。革張りのソファ、間接照明、静かに流れるジャズ。凛がこれまで足を踏み入れたことのない世界。
「来てくださって、ありがとうございます」
黒澤は立ち上がり、凛を迎えた。彼は濃紺のスーツに、シルバーのネクタイピン。完璧に整った外見。
「契約の詳細を説明します。座ってください」
黒澤は分厚い契約書を取り出した。
「報酬は一億円。これを三回に分けて支払います。契約締結時に三千万、半年後に三千万、契約終了時に四千万」
「四千万? 最後が多いのは?」
「契約を完遂した場合のボーナスです。途中で契約を破棄した場合、最後の支払いはありません」
黒澤はページをめくった。
「業務内容は先ほど説明した通り。デザイン監修と、社交界への同行。週に三日、私のオフィスで勤務していただきます。残りの日は、デザイン作業に充ててください」
「社交界への同行というのは、具体的には?」
「パーティー、展覧会、慈善イベント。月に二、三回程度です。ドレスやアクセサリーは全て用意します。あなたは私の隣にいて、微笑んでいてくれればいい」
「それだけ?」
「それだけです」
黒澤は微笑んだ。
「ただし、一つだけ条件があります」
「何ですか?」
「この契約のことは、誰にも話さないでください。特に、これが偽装婚約であることは、絶対に秘密です」
「なぜ、そこまで?」
黒澤は少し困ったように笑った。
「実は、本社の役員たちが私に結婚を強く勧めているんです。『既婚者の方が安定して見える』『アジア市場では家族の価値観が重要だ』と。でも、私には結婚する気がない。だから――」
「だから、偽装婚約者が必要なのね」
「その通りです」
凛は契約書を見つめた。
一億円。それがあれば、父の医療費を払える。借金を返済できる。そして、もう一度人生をやり直せる。
でも――。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「なぜ、私を選んだんですか? 本当の理由を教えてください」
黒澤は沈黙した。しばらく夜景を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「あなたのデザインに、亡き母の影を見たからです」
凛は息を呑んだ。
「母は、テキスタイルデザイナーでした。幼い頃、母の工房で色とりどりの布に囲まれて育ちました。でも、母は私が十歳の時に亡くなった。それ以来、母のようなデザインに出会ったことがなかった――あなたの作品に出会うまでは」
黒澤の声には、深い感情が込められていた。
「『夜明けの反射』を見た時、母が好きだった色使いを思い出しました。藍から金へのグラデーション。母もよく、『夜明けは希望の色だ』と言っていた」
凛の目に涙が溢れた。
「だから、契約してください」
黒澤は手を差し出した。
「あなたの才能を、もう一度世界に見せてください」
凛は、その手を握った。
「契約します」
契約締結から一週間後、凛の人生は劇的に変わった。
まず、黒澤が用意したのは、広尾の高級マンションだった。
「ここが、あなたの住居兼アトリエです」
90平米のワンルーム。全面ガラス張りで、東京タワーが見える。白を基調とした内装に、最新の家具。そして、一角には本格的なデザインスタジオが設置されていた。
「こんな……こんな場所、私には――」
「契約の一部です」
黒澤は淡々と言った。
「あなたには最高の環境で、最高の仕事をしていただきます。遠慮は不要です」
次に、彼は凛を銀座のブティックに連れて行った。
「MAISON NOIRの今シーズンコレクションから、好きなものを選んでください」
店内には、息を呑むほど美しい服が並んでいた。漆黒のシルクドレス。深紅のカシミアコート。エメラルドグリーンのイブニングガウン。
どれも、凛がこれまで手の届かなかった世界のもの。
「本当に、好きなものを?」
「もちろん」
黒澤は微笑んだ。
「あなたは今日から、MAISON NOIRの顔です。その服を着て、世界に私たちのブランドを伝えてください」
凛は震える手で、一着のドレスを選んだ。ミッドナイトブルーのシルクドレス。シンプルなデザインだが、生地の質感と、光の当たり方で表情を変える繊細な作り。
「いい選択です」
黒澤が頷いた。
「このドレスは、パリのアトリエで三ヶ月かけて作られました。シルクはリヨンの伝統的な織元から調達し、染色は日本の職人が担当している。東洋と西洋の美学が融合した、MAISON NOIRらしい一着です」
試着室から出た凛を見て、黒澤の目が一瞬、輝いた。
「完璧です。まるで、そのドレスのためにあなたが存在しているかのよう」
鏡の中の自分を見て、凛は驚いた。
やつれていたはずの顔が、不思議と輝いて見える。ドレスの青が、彼女の黒髪と白い肌を引き立てている。
「私……こんな風に見えるんだ」
「これが、本来のあなたです」
黒澤は凛の隣に立った。
「今まで、あなたは自分の価値に気づいていなかっただけ。でも、これからは違う。私が、あなたの価値を世界に証明します」
凛は、初めて心から微笑んだ。
「ありがとうございます、黒澤さん」
「玲於と呼んでください」
彼は優しく言った。
「これから一年、私たちは婚約者です。お互い、ファーストネームで呼び合いましょう」
「じゃあ……玲於さん」
「『さん』も不要です。玲於、と」
「玲於……」
その名前を呼ぶと、不思議と心が温かくなった。
「はい、凛」
玲於も彼女の名を呼んだ。
その瞬間、何かが始まった気がした。
二年後――。 パリ、サンジェルマン・デ・プレ地区。 凛は、自身のアトリエ兼ショップを構えていた。小さな空間だが、そこには彼女のデザインした作品が並んでいた。 『MINASE』――彼女のブランド名。 日本を離れ、パリで一から始めた。最初は苦労の連続だった。言葉の壁、資金不足、孤独。 でも、諦めなかった。 凛のデザインは、徐々に評価されていった。ある小さなブティックが作品を買い取り、それが雑誌に掲載された。口コミで広がり、注文が増えていった。 そして今年、パリのファッションウィークで、初めての個展を開催することになった。 その準備をしている午後、ドアベルが鳴った。「いらっしゃいませ」 凛はフランス語で挨拶した。 振り返ると、そこに立っていたのは――。「玲於……」 彼は、以前よりも柔らかい表情をしていた。スーツではなく、カジュアルなシャツとジーンズ。まるで、別人のよう。「久しぶりですね、凛」「どうして、ここが……」「あなたの個展の招待状を見ました。来てもいいかと思って」 玲於は微笑んだ。「それに、約束しましたよね。二年後に会うと」 凛は、玲於をじっと見つめた。 確かに、彼は変わっていた。以前の完璧主義的な雰囲気が消え、もっと人間的で、温かい印象になっていた。「父と、和解しました」 玲於が言った。「簡単ではありませんでした。でも、あなたの言葉を思い出して、向き合いました。父も、自分の過ちを認めました。今は、関係を再構築している最中です」「そう……良かった」「それから、MAISON NOIRを辞めました」 凛は驚いた。「辞めた? なぜ?」「自分のブランドを立ち上げたかったんです。母の遺志を継いで」 玲於は、小さな箱を取り出した。
それから一ヶ月、凛と玲於の関係は、完全にビジネスライクになった。 必要最小限の連絡のみ。社交イベントでは、完璧な婚約者を演じる。しかし、二人きりになると、沈黙だけが支配した。 凛はデザイン作業に没頭した。感情を全て、布の上に注ぎ込んだ。怒り、悲しみ、そして――消えない愛情。 玲於への気持ちは、消せなかった。 彼が嘘をついていたことは許せない。でも、彼と過ごした時間は、確かに本物だった。 あの優しさ。あの眼差し。あの言葉。 全てが計算だったとは、信じられなかった。 そして、十二月――MAISON NOIRの東京フラッグシップストアが、ついにオープンを迎えた。 オープニングセレモニーには、政財界の要人、セレブリティ、メディアが集結した。 凛がデザインしたシルクタペストリーが、ストアの壁面を飾っていた。『夜明けの約束』のモチーフを拡大した、圧倒的な存在感の作品。「素晴らしい」「こんなデザイン、見たことがない」「水瀬凛という名前、覚えておかないと」 賞賛の声が、次々と届いた。 でも、凛の心は空虚だった。 この成功は、本当に自分の力なのだろうか。それとも、玲於の罪滅ぼしの結果なのだろうか。 セレモニーの最中、凛は玲於から小さなメモを渡された。『終了後、屋上で待っています。最後に、話させてください』 凛は迷った。 でも、結局――屋上へと向かった。 表参道の夜景が、眼下に広がっていた。 玲於は欄干の前に立ち、凛を待っていた。「来てくれて、ありがとう」「これが最後よ」 凛は冷たく言った。「話が終わったら、契約も終わり。もう、二度と会わない」「分かっています」 玲於は頷いた。「でも、本当のことを話させてください。全部」 彼は深呼吸をして、語り始めた。「父が水瀬商事を標的にしたのは、事実です。
翌日、凛は美咲と会う決心をした。 渋谷のカフェ。午後三時。人目の多い、安全な場所。 約束の時間に現れた美咲は、凛の記憶よりも華やかだった。ブランド物のスーツ、完璧なメイク、自信に満ちた笑顔。「来てくれてありがとう」 美咲は凛の向かいに座った。「単刀直入に聞くわ」 凛は冷たく言った。「あなたは、何を知っているの?」「全てよ」 美咲は紅茶を一口飲んだ。「黒澤玲於が、なぜあなたに近づいたか。あの契約の本当の目的。そして、あなたの父の会社が潰れた真の理由」 凛の手が震えた。「何を言っているの……?」「水瀬商事が破産したのは、拓海の経営ミスだけが理由じゃない」 美咲は冷笑した。「あれは、計画的な買収工作だったのよ」「買収工作……?」「ええ。黒澤玲於の父――黒澤財閥の会長が、水瀬商事の持つ中国の製造ネットワークを欲しがっていた。でも、あなたのお父様は売却を拒否した。だから――」 美咲は残酷な笑みを浮かべた。「だから、会社を潰すことにしたの。内部から」 凛の世界が、再び崩れ始めた。「拓海は……拓海も、その計画に関わっていたの?」「最初はね」 美咲は頷いた。「拓海は、黒澤財閥から資金提供を受けて、水瀬商事の経営を意図的に悪化させた。でも、途中で怖気づいたの。あなたの父親を裏切ることに、罪悪感を覚えたのよ」「じゃあ、なぜ会社は――」「私が完遂したからよ」 美咲は誇らしげに言った。「拓海が躊躇している間に、私が取引先を切り、銀行への情報を流した。そして、完璧なタイミングで破産させた」 凛は吐き気を催した。「あなた……なぜそんなことを」「お金のためよ。黒澤財閥は、私に一億円支払った」
凛のデザインが認められてから、彼女の日々はさらに慌ただしくなった。 MAISON NOIRのオープニングコレクションの準備。社交界でのイベント出席。そして、玲於と過ごす時間。 表向きは「婚約者」として、しかし実際には――その境界線が、曖昧になりつつあった。「凛、今夜は空いていますか?」 ある日、玲於が珍しく私的な誘いをしてきた。「はい、大丈夫です」「良かった。実は、あるレストランを予約してあるんです。二人だけで、ゆっくり話したいことがあって」 凛の心臓が跳ねた。「話したいこと……?」「ええ。最近、あなたと仕事の話ばかりしていて、プライベートなことを全然聞いていないなと思って」 玲於は微笑んだ。「婚約者なのに、お互いのことをあまり知らないのは、おかしいでしょう?」 その夜、二人が訪れたのは、麻布にある隠れ家的なフレンチレストランだった。 十席だけの小さな空間。シェフが一人で全てを担当する、完全予約制の店。「ここは、母が好きだった店です」 玲於が説明した。「母がまだ生きていた頃、誕生日には必ずここで食事をしました。母は、シェフの作る『記憶の料理』が大好きでした」「記憶の料理?」「ええ。このシェフは、客の人生の物語を聞いて、それを料理で表現するんです」 そう言っている間に、シェフ自身が挨拶に来た。 六十代半ば、穏やかな笑顔の男性。「黒澤さん、お久しぶりです。お母様のことは、今でも時々思い出しますよ」「ありがとうございます。今日は、特別な人を連れてきました」 玲於は凛を紹介した。「彼女は、デザイナーです。母と同じように、色と光で物語を語る人です」 シェフは凛をじっと見つめた。「なるほど。では、お二人のために、特別なコースをお作りしましょう」 最初に出されたのは、透明なスープだった。
デザインの仕事は、凛が想像していたよりも遥かに厳しかった。 広尾のアトリエで、凛は毎日十時間以上、デザインに没頭した。 MAISON NOIRの東京フラッグシップストアは、表参道の一等地に建設中だった。地上三階、地下一階の独立した建物。建築家は、日本とフランスの伝統を融合させた大胆なデザインを提案していた。 凛に与えられた使命は、その空間に調和するテキスタイルデザインの創造。 ストアの壁面を飾るシルクのタペストリー。各フロアのテーマカラー。そして、オープニングコレクションのための限定スカーフデザイン。「難しいわ……」 凛は何度目かの試作を破り捨てた。 MAISON NOIRのブランドアイデンティティは明確だ。「夜の美学」「洗練された官能性」「東洋と西洋の融合」。 だが、それを形にすることは、想像以上に困難だった。 単に美しいだけではダメ。ブランドの歴史を理解し、日本市場の特性を考慮し、そして何より、見る人の心を動かさなければならない。「行き詰まりましたか?」 アトリエのドアが開き、玲於が入ってきた。彼は週に一度、凛の進捗を確認しに来る。「すみません……なかなか、納得できるものができなくて」「見せてください」 玲於は凛のスケッチブックを手に取った。そこには、何十枚ものデザイン案が描かれていた。「どれも、悪くありません」 玲於は言った。「技術的には完璧です。色彩理論も理解している。構図も美しい」「でも?」「でも、何かが足りない」 玲於は凛を見た。「これらのデザインは、頭で考えたものです。完璧すぎる。あなたの『夜明けの反射』にあった、あの生々しい感情が感じられない」 凛は悔しさで唇を噛んだ。「じゃあ、どうすれば――」「理論を捨ててください」 玲於は断言した。「今夜、私と一緒に来てください。あなたに、あ
契約から二週間後、凛は初めての「公務」を迎えた。 六本木ヒルズで開催される、ラグジュアリーブランド合同展示会。日本の富裕層と、海外からのバイヤーが集まる、年に一度のイベント。「緊張しないでください」 玲於が、リムジンの中で凛に言った。「あなたは私の隣にいて、笑顔でいればいい。会話は私がリードします」「でも、私みたいな人間が、あんな場所に――」「あなたはみたいな人間ではありません」 玲於の声は厳しかった。「あなたは水瀬凛。MAISON NOIRのクリエイティブ・ディレクター補佐であり、私の婚約者です。自信を持ってください」 凛は深呼吸をした。 今日、彼女が身につけているのは、シャンパンゴールドのイブニングドレス。首元には、MAISON NOIRの最新コレクションから選んだ、ダイヤモンドとサファイアのネックレス。髪は専属のスタイリストがアップにし、メイクも完璧だ。 鏡の中の自分は、もはや三週間前の自分ではない。 会場に到着すると、フラッシュの嵐が待っていた。「黒澤さん! こちらを向いてください!」「お隣の方は、どなたですか?」 玲於は落ち着いて、凛の腰に手を回した。「私の婚約者、水瀬凛です」 その一言で、会場がざわめいた。 MAISON NOIRのアジア代表、黒澤玲於の婚約者――その情報は、瞬く間に広がった。「はじめまして」 凛は笑顔で会釈した。心臓は激しく鼓動しているが、表面上は穏やかに。 会場内に入ると、そこは別世界だった。 シャンデリアの光。クリスタルのグラスを持つ人々。ピアノの生演奏。空気さえも、どこか違う匂いがした。高級な香水と、富の匂い。「玲於!」 金髪の女性が近づいてきた。完璧なまでに洗練された美しさ。彼女は流暢な英語で話しかけた。「久しぶりね。これが噂の婚約者?」「ああ。凛、紹介しよう。彼女はイザベル・デュラン。パリ本社のマーケテ